【ブログ部:不便と便利を考える】テクノロジーによる“全自動”と手作業のはざまで思うこと@長江春子
なんでも揃う世の中で
物事にはコインの表と裏みたいに両面性がある。便利さと不便さもそうだ。
スマホやPCの普及で、漢字が書けなくなった。
エアコンの普及で、体の温度調整力が衰えた。
ウォーキングマシーンが家に来てから、自然散歩をしなくなった。
動画通話やバーチャル会議が簡単にできるから、リアルに会う努力をしなくなった。
高性能イヤホンは、接近してくる車の音や鳥のさえずり、家族の会話も遮断した。
枚挙にいとまがないほど。

ボタンをひとつポチっと押せば、なんでも揃う世の中。
手を動かして必要なものを作ったり、頭を使って工夫したりする「経験」がどんどん減っていく。
便利すぎる暮らしって?
人類は、手や頭を使うことで道具を作りだし、進化したはずだ。
より便利な、より高性能な道具を追求し続けて、人間社会は発展したはずだ。
でも、今や考えることすらAIに任せようとする人間たちの行き着く先は、映画ウォーリーの宇宙船内のような全自動の暮らしなのだろうか。

この映画の中では、人々は自分たちが汚し切った地球を捨てて、巨大な宇宙船に移住。
その中で全てのことを、ロボットやAIに世話してもらって、日がな一日ゴロゴロして過ごす。
気がつくと、立てず、歩けず、やがて一本の植物の苗に希望を見出し、地球帰還を目指す…。
手間暇かかるから、いいこともある
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
最近は、人々もそれに気づき始めているように思う。
Uターン、地方移住、古民家活用、キャンプブーム、ミニマリスト…人々はより自然に近いところで、手を動かし頭を働かせて工夫しながら暮らすことに、人間らしさを見い出そうとしている気がする。
発展すべきではないと言っているわけでも、太古の暮らしがいいと言っているわけでもない。バランスが大事なのではないだろうか。
そういう私は家電のおかげで時間的に余裕が生まれ、仕事ができる人間である。
でも、食洗機だけは導入していない。なぜなら、手洗いで食器の山を取り崩していく時間は、心を整える大事なルーティンなのだ。

手間暇がかかるからこそいい、と考える人は案外多いのではないだろうか。
人によってそれは料理だったり、野菜作りだったり、手芸だったり、釣りだったり、鈍行列車での旅だったり、ペットの世話だったり、手書きの手紙だったり…。
皆さんにとって不便だけど不便だからいいこと、便利だけど便利すぎて怖いことって何だろう。ちょっと一息入れて考えてみない?