書籍「小春のあしあと」著者、長江春子さんのコラム「梅雨空のつれづれに」



赴任地は武漢ではなかった


 コロナウィルス感染症で一躍有名になった中国武漢市(中部の大都市で湖北省の省都)。

そこが日本青年海外協力隊、日本語教師隊員、長江春子の赴任地……のはずでした。


 実際には、JICA事務所がある中国の首都北京に着いた三日目に「赴任地が変わりました」と告げられたのです。人生、何が起きるか分かりません。


 1000キロの列車の旅を経て、まず向かったのは、気温が40度近い、体感温度がそれ以上だという、中国三大ストーブの名にふさわしい……武漢。

 そこから車に乗換え、三国志でおなじみの孫権(そんけん)が本拠地とした卾州市(がくしゅうし、武漢の東隣の市)に向かい、そこから車ごと、フェリーで広大な長江を渡りました。

「ああ、私と同じ名前の川! 海のようだ!」と思いました。

 着いた対岸が湖北省黄州市(こほくしょうこうしゅうし)。そこが本当の赴任地でした。


 こじんまりとした黄州の市街地は、適度に栄えていて、品格のある落ち着きがありました。小学校の門には「科挙試験場跡地」という看板がありました。

 科挙試験とは官吏になるための登竜門。その伝統を受け継いだのか、黄州には中国屈指の難関・名門高校があり、その高校の問題集が高値で取引されているという噂を聞きました。


 市街地のはずれに「黄州赤壁」という遺跡がありました。中国北宋王朝の政治家、文豪、書家、画家で、名を蘇軾(そしょく)、号を蘇東坡(そとうば)とする人の流刑地でした。


 長い石段を登り、崖の頂上に作られたその楼閣には、蘇軾が寝ていたという石のベッドがあり、お堂の大きな石碑には、表と裏にそれぞれ蘇軾の有名な散文詩「前赤壁の賦」と「後赤壁の賦」が刻まれていました。

 「黄州赤壁」は、三国志の「赤壁の戦い」の古戦場ではなく、あくまでも蘇東坡が付けた名前で、ゆえに「東坡赤壁」(どうばせきへき)とも言うのだそうです。



「ズーズーファ」の香りとともに


 そんな黄州にある大学で、私は2年間、日本語を教えました。大学の正門から大通りに通ずる道の両側には売店や小料理屋、民家が並び、その軒下を借りるようにして行商人が野菜や玉子、果物などを売っていました。

 時には、豚肉の半身を広げて量り売りをしていた人もいました。時々、工商管理のお役人がやってきて、追い払われることもありました。


 春になると、そんな行商人に混じって、「花売りの少女」ならず、「花売りおばあちゃん」を見かけるようになりました。


 小さな腰掛に座り、足元には水の入った大きなほうろう製の洗面器。そこに白い花をたくさん浮かべていました。

 すると、にわかに人だかりができ、学生たちが楽しそうにその花を買っていきました。それは中国語で「ズーズーファ」と言うのだと教わりました。


 日本に戻ってきたある日、ホームセンターで突然、夫が「ズーズーファだよ、日本にもあったんだね」と懐かしそうに言いました。札には「クチナシ」と書いてありました。「ズーズーファ」とは「クチナシ(梔子)」のことであり、「梔子花」の中国語読みだったのだと初めて知りました。


 先日、夫が蕾をいっぱいつけた「ズーズーファ」を買ってきました。

 朝、寝起きの私にいきなり言うのです。

「二輪咲いたよ!切り取って、水に浮かべてごらん」と夫。

「切り取ったら、もったいないよ」と私。

「ベランダで、だれも愛でてやらないほうがもったいないさ」


「そんなに言うのなら」と、一輪切り取って皿に浮かべ、リモートワークのそばにおいて愛でることにしました。

 嗅いでみると、甘~い香りがして、なんともよい気分になるのでした。なるほど、夫の言っている意味がわかりました。


 それから新しい蕾が咲くと迷わず切り取り、何輪も一緒に皿に浮かべてみたら、部屋中がクチナシの香りに包まれました。


「だから、あのおばあちゃんは洗面器いっぱいに浮かべて売っていたのね」と20年越しに納得した私。


「男子学生が買って女子にプレゼントしたりしてた」

「へえ、ロマンチック!一輪いくらで売ってたの?」と私。

「知らない。ガールフレンドなどいなかったから」

「だろうね」と思わず噴き出してしまいました。


 水に浮かべたズーズーファ。

 夫にとって、それは母校と故郷の原風景の香りであり、私には若かりし協力隊時代の大切な思い出なのだ、と改めて思いました。


 梅雨空によく似合う花。

 今日もベランダで新たに一輪、静かに咲きました。



長江春子(小春)


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